私は看護師です。以前いた職場のヒヤリハットについて最近ふと思い出しました。当時の職場は優しくて穏やかなスタッフか揃っていてとても居心地の良いところでした。もう時効なので、その時起きたヒヤリハットを振り返ってみたいと思います。内容は一部改変しています。
一件の重大な事故の背後にはおよそ29件の軽微な事故があり、さらにその背景には300件の無傷であるヒヤリハットが存在すると言われています。これをハインリッヒの法則と言います。それは本当に小さなヒヤリハットでした。不慣れな点滴の取り扱いに関連するものです。
このヒヤリハットを振り返ることは重大な事故を防ぐために、大変意味のあることです。この記事を読んだ方が、自分の職場を振り返るきっかけになればと思います。
リスク管理の考え方にスイスチーズモデルがあります。スイスチーズには大小さまざまな穴が開いています。このチーズをスライスして並べた場合、一つの穴をすり抜けても次のチーズの壁に当たればエラーは防げます。しかし次のチーズの穴をすりぬけてしまい、最後まで壁に当たらずに穴を通り抜けていった場合にエラーが発生すると考えます。この穴の数が多く、大きいほどすり抜けやすくなります。このようにエラーは一つの要因で発生するのではなく、複数の要因が関連して発生すると考えられます。
この事例にもたくさんの穴がありました。
通常点滴がオーダーされる際は医師が速度を指示します。しかし医師も忙しく、全てオーダーが完璧にされていることはありません。危険な薬剤であれば薬剤部でチェックされますが、危険薬剤でない場合は、チェックはかかりません。
そして前提として、点滴などの薬剤の取り扱いについて、患者への実施者である看護師はその薬剤に精通しているもの、また不慣れであった場合は薬剤情報を確認し、取り扱いの注意事項を分かった上で、取り扱っているものということがあります。
そのため、医師は看護師を信頼し、任せていることがあります。それが点滴の速度指示を入れずにオーダーをすることにつながります。
この件は本来の点滴速度より少し速く実施したというヒヤリハットです。危険薬剤ではありませんし、たった一回だけわずかに速度が速かったからと言って有害事象が起こるようなことはありません。その上でヒヤリハットを振り返ってみます。
今回の事例でのチーズの穴を挙げてみます。
・医師が速度指示を記載していなかった。
・その日の担当者は2年目だった。
・2年目看護師から医師へ問い合わせした際に、いつもの投与時間でよいとあいまいな返答だった。
・医師は看護師全員が当該薬剤の取り扱いを知っていると考えていた。
・しかし、この病棟では当該薬剤の取り扱いは年に数例しかなかった。
・担当の2年目は近くにいた3年目の先輩に相談したが、医師が任せると返答していたので、いつも使用する点滴の投与速度で実施していいと答えていた。
・ちょうど日勤から夜勤へ勤務変更する時間帯で、夜勤担当者へ「今実施している点滴速度を持続してほしい。」と説明していた。
この時点で少なくとも7つの穴がありました。
そしてこの時、私がもやもやしたことが起きました。私はその日、違う業務を担当していました。たまたまこの病棟では見慣れない点滴がオーダーされていて、点滴の投与速度が当該薬剤にしては少し速いことを知りました。本当にたまたま見つけたという感じです。
そのため担当の2年目に通常の実施速度を伝え、速度を遅くするようにアドバイスしました。2年目の担当者は「わかりました。変更します。」と返答したため、私はその日の本来の業務に戻りました。その時間はちょうど日勤から夜勤への勤務変更の時間でした。しかし実際には投与速度は変更されていなかったことが翌日判明しました。
ここで投与速度が変更されていたら、エラーは防止できたことになります。
しかし変更されませんでした。
ここでさらにチーズの穴を挙げてみます。
・2年目の日勤担当者は夜勤者に速度変更を依頼したと話しているが、夜勤担当は聞いていないと話していてコミュニケーションエラーが起きている。(多分日勤担当が言おうとして失念していると考えられる。)
・本来、2年目は夜勤者へ速度変更を依頼するのではなく、自分で変更するべきであった。
・夜勤担当は以前の部署で当該薬剤を取り扱うことはよくあった。そのため、点滴速度が少し速くおかしいと思ったらしいが、異動後間もなかったため確認する勇気がなかった。夜勤担当曰く「日勤者と話したのは当初の速度の指示のみで、変更は聞いていない。」と話している。(夜勤担当は、はじめの速度に違和感を感じているため、変更を聞いていれば点滴速度を変更したと考えられる。)
ここで穴は3つありました。
さらに穴はまだあります。
私は不慣れな薬剤を取り扱う際は必ず、薬剤情報を確認したうえで実施しています。しかし、2年目の当該看護師ははそのようなことをしたことがないそうなのです。先輩からそのように教えられたことがないというのです。つまり、ここではそのような新人教育をしていなかったことになります。先輩もそのようなことを指導されてこなかったのです。
ここでの穴は
・「慣れない薬剤を取り扱う際に調べる。」という職場風土がない。もともとあまり危険な薬剤を投与することのない部署であり、危機感がない。
と1つ上げられます。これら少なくとも合計11個の穴がありました。それをすべて通り抜けてしまいました。
まず医師が点滴オーダー時に速度指示を入れていればヒヤリハットは起きませんでした。また2年目の担当者が薬剤情報を調べて、正しい速度で実施していれば、そもそもコミュニケーションエラーなどは関係なく、ヒヤリハットは起きなかったでしょう。
また夜勤担当が速度に違和感を感じ、以前の部署で取り扱っていた速度を貫くことができればヒヤリハットは防げたでしょう。
また医師が看護師を頼って任せているという風土もここにはあります。もし看護師が厳しく、医師へ速度指示を入れるように依頼していればこのようなことは起きなかったでしょう。
つまり職場風土はヒヤリハットに大きく影響があります。
ギスギスしていて、心理的圧迫が強いと平常心が保てず、周りに確認できずにミスを誘発します。
逆に今回のように緩い職場環境では、本来やるべきことをしていなくても咎められることがなく、知識の向上がなされず惰性で仕事を行うことにつながります。それがミスにつながります。
また女子が多い職場の難しさがあります。女子は「和を乱す。」ことへの恐怖感から、「言いたいことが言えない。」ことがよくあります。実際に夜勤担当が意見を言えなかったのはここに起因していると思われます。
部署には必ず教育担当いますが、たいていそこに長くいるスタッフが担当します。そうすると普段行っていることが当たり前になりすぎて、自部署の問題点に気づきにくくなります。逆に外から異動してきた場合、他部署との違いに気が付くことはあっても、長年の歴史の中で生まれたローカルルールを変えることは容易なことではありません。
ある勉強会に参加した時、講師が話していた言葉がとても心に残っています。講師は医師だったのですが、その医師が新病院に異動した時、もともといた医師になかなか受け入れてもらえず、なかなか改革が進まなかったそうなのです。その時の心境について
「改革は砂漠にオアシスを作るくらい難しい。砂漠に水を一滴注いでもすぐに蒸発してしまう。もう一滴注いでもやっぱり蒸発する。それでもあきらめずに水を一滴、また一滴と注ぎ続ける。あきらめずにずっと注ぎ続けなければならない。すると少しずつ、水が蒸発しにくくなり、土壌ができ、やっと草が生えてオアシスができる。それくらい時間がかかる。」と話していました。
また病院の難しさは、いろいろな職種が混在していて、改革するにはさまざまな職種と調整しなければならないことにあります。
この部署に関係する医師が「点滴の投与速度の指示を毎回入れること。」部署として「不慣れな薬剤の取り扱い時は薬剤情報を確認する。」ここを改善するには、1日2日でどうなるものではありません。特に医師の意識改革は診療部を巻き込むことになるため、困難を伴います。やはり、数年かけて改革するくらい本腰を入れる必要があります。
ここは本当に居心地の良い部署でした。残念なことにすぐに異動になり、この部署にいたのは短期間でした。すでにそこを離れてしまっていますが、果たして改革ができたのか気になるところです。